院長ブログ

華岡青洲について

2013.09.13

前回のブログの最後に華岡青洲について少しお話しいたしましたので、青洲の生き様をもう少し付け加えたいと思います。華岡青洲は外科医でもあり、麻酔科医でもあり、漢方医でもありました。ちなみに私は自称:麻酔科医、漢方医だと思っています。また、青洲は漢詩もたしなむ文化人でもありました。

 

竹屋蕭然烏雀喧 ちくおくしょうぜん うじゃく かまびすし

風光自適臥寒村 ふうこう おのずとして かんそんに がすにてきす

唯思起死回生術 ただにおもう きしかいせいのじゅつ

何望軽裘肥馬門 なんぞ けいきゅうひばのもんをのぞまん

 

「私の貧しい家の周りでは鳥が鳴き、私にはこのような田舎に住むことが合っている。ただ思うことは、瀕死の患者を救う医術のことだけである。高い着物や肥えた馬といったぜいたくは決して望まない。」

 

この漢詩は華岡青洲が春林軒の門下生が卒業するときに送った詩であり、私がもっとも好きな漢詩でもあります。治療に難渋したとき、大学で研究や学会、論文作成に行き詰まりを感じたときにはいつもこの詩を思い出していました。そして大学を辞し、一介の町医者になった今、私はこの詩は青洲が現代の医学生や若手医師に「医療というものの本質」の重要性を問いかけているように思えてなりません。青洲は紀州平山という田舎にいて、ただただ患者の命を救うことのみを考えていました。その結果、紀州藩主から藩医として要望されてもそれを受け入れることなく地域医療に没頭したそうです。しかし驚く事に、1804年10月13日、そのような状況下において、世界中の誰もがなしえなかった全身麻酔薬「通仙散」を使用した全身麻酔下での乳がん手術を成功させました。青洲が45歳の時だそうです。近代麻酔の起源とされるウィリアム・モートンがエーテル麻酔下での手術の公開実験に成功したのが1846年のことですから、青洲の業績はそれに先立つこと約40年の快挙でした。青洲が手術を成功させた時と同じ年齢に達した私が思うことは、時代は変われどただただ唯思起死回生術」であります。現代医学が発達した今の時代においても、いまだ治療法が見つからない病態は数多く存在します。また痛みという病態においてもそれは同じ事でしょう。私は西洋の医学だけでは治らぬ病態があるからこそ漢方を始めました。薬や神経ブロックが効果的であれば「どうして効果的であったのか」、また効果が無ければ「なぜ効果がなかったのか」、人でも多くの方の症状を緩和することはできないか、どうやったら痛みを和らげられるのか、常に自問自答しております。本当に難しい問題ですね。ただ青洲はもっともっときびしい条件のもとで日々努力していたわけですから、同じ人間である青洲にできて我々にできないはずはありません。大切なことは「あらん限りの知恵をふりしぼって努力する」「決してあきらめない」、まさにその不屈の精神にあるのだと思っています。