院長ブログ

死について:留魂録 第8章

2013.10.18

8月に父が死に、先日その49日の法要を行いました。私は医師として生きてきたせいもあり、人の死と言う物に身近に、かつ長らく携わってきましたが、身近な人間の死と言う物に直面し、あらためて死という物を考える時間が増えたような気がします。これは留魂録 と言われる書で、吉田松陰の遺書にあたるものだと言えます。その中でも第8章は有名な文面で

 (原文)今日死を決するの安心は、四時の順環に於て得る所あり。蓋(けだ)し、彼の禾稼を見るに、春種し夏苗し秋苅り冬蔵す。秋冬に至れば、人皆その歳功の成るを悦び、酒を造り、醴を為り村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十一。事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然りとも義卿の身を以て云えば、是亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば、人事は定りなし。禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十 百は自ラ五十、百の四時あり。十歳を以て短とするは惠蛄(夏蝉)をして霊椿(霊木)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして惠蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずと。義卿三十、四時已に備亦秀。亦実その秕たると、その粟たると、吾が知る所に非ず。若し同志の士、その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず。自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志其是を考思せよ。

(訳)今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。

(私事とその思い)松陰は、人の一生を穀物の四季に例え、何歳で死んだとしても、その人生にはおのずと四季があるのだと考えていたように思います。そして、松陰は自分の四季を終える事になった後に、まかれた種は残された弟子たちによって、見事に穂を出して実りました。たとえ松陰の身体は滅んでしまったとしても、魂は心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなることを心から望んだのでしょう。そしてそれは、二百年以上経った今も色褪せることなく、私たちの胸を打つのだと思います。今の時代では、「自分さえよければ他の人はどうでもいい」という自分勝手な風潮が強く、凶悪な事件も絶えません。実に悲しいことだと思います。このような時にこそ、「生と死」の真の姿というものをあらためて見直す必要があるのではないかと思っています。私もいつか松陰のように、例え自分の身が滅んでも生き続ける魂というものを持てるような人間になりたいと思っています。